Something Beautiful
バラはバラになろうとしている
岩は岩になろうとしている
日本の松を見たことはある?
面白い形をしているんだ。
宇宙が誕生した根源的なエネルギー、
生命に宿る神秘の力が
この世に生きとし生けるものすべてに
あなたに、私に、宿っている。
ぽっかり心に空いた穴に、新たな息吹。
宇宙が始まるビッグバンの衝撃でもって
魂が揺り動かされたいつかのこと。
いつも誰かの言葉に救われて生きてきた。
言葉と共に生きてきた。
言葉を求めて生きてきた。
しかし、それなりに蓄積したはずの言葉もすぐに枯渇する。言葉を求むる力すら失うこともある。精神は身体と切り離せず、時間は流動性を排除できない。どうにも疲弊して気力体力失われる。
そんな時、過去の自分の言葉に救われることもあるらしい。
写真を見返した時、忘れていたあの香りが漂った時、ふっと当時の感覚が蘇る。鮮明な記憶…記憶の神経回路をタイムマシンでワープする。セルフタイムマシン、インナータイムマシン?インナータイムマシンで時空を超えた電子エネルギーはたどり着いた先で輝いて散る。
いつしか、ふつふつと沸く命のエネルギー。
書いたときの記憶はないが、確かに自分が書き残したメモがある。今に至るまでに残る言葉には、手離したい未熟なものから、遠い誰かが残したかのように響く、悪くないものもある。いつも「今」からの眺めだが。そのようにしてこのメモもまた、いつか私を癒すことがあるだろうか。それとも未来の私に容赦なく破棄されるだろうか。
人が作り出したものはすべて作者のクローンのようなものと想像してみるとなかなか面白い。作品、仕事、物、創造したものはクローン。誰かのクローンで溢れる世界、クローンだらけの世界で人々が日々交流する世の中を想像し、映画のワンシーンを描いてみようか。
-MEMO-
言葉を使ってコミュニケートできない対象、目に見えない想いや願いといったものを、色鮮やかに、自由に美しく瞳のなかに描き出し、その風景と共に生きることを、私は芸術と呼びたい。
何もない暗闇のなかに輝く星々を見つけ、或いは、暗闇そのものにエネルギーを見つけられる人を、芸術家と呼びたい。
そして、そう生きることは孤独ではない、と言いたい。
インナータイムマシン
嬉しいこと、嫌なこと、たくさんある
心の輪郭が見えるようになってくる
嬉しいことがあると、元気が湧く
嫌なことがあると、美しいものが増える
美しいものが増えれば、やがて嬉しいことが訪れる
私の幸福論は美のアマウント
”犬の感動的なまなざし”
そうして感謝が増えていく
感謝に満ちて幸せになる
苦しい時に見つけたいのは感謝できること
自分を救ってくれる何かを見つけられなくとも
自分が大切にしたい何かは見つけられる
感謝したいことなら見つけられる
自分から離れて、宇宙の果てまでいってみる
それから還ってくればいい
そよぐ風も、暖かな陽射しも、恵みの雨も、あなたのために注いでいる
私のために注いでいる
あのひとに、誰かに、おんなじに注いでる
あなたのため、あのひとのため、私のため
それでよし
それでよし。
勝手にカタルシス
幼い頃を思い出して、笑ってしまう。「つもり」でやれば実現できると思っていたあの輝き。「修行」のこころを知らずとも、修行のつもりで念じ続ければドラゴンボールの悟空のように舞空術を会得できたり、金斗雲を呼べたり、或いは魔女のキキのようにほうき(デッキブラシ)で空を飛べる、と真剣に念じてみる。実際どう念じていたのかは説明もつかないが、強くイメージしようと試みる。結局、飛べはしないのだが…。ただ、飛ぶことについては、決して「飛んだつもり」にしなかったから、のちに彼の麻原氏が飛んだとする写真を見た時には、瞬時にジャンプしてるなと判断した。空を飛ぶには、他の方法がある。
10歳を過ぎた頃には、なぜかタロット占いに憧れ、ひとり訳もなくタロットカード占いをしたことがある。本屋さんでタロットカードのついた占い本を手に入れると、ジプシー世界に仲間入りした気分だった。が、幾度か試すうち死神のカードが出ると、何かとても悪いことをしたような気持ちになり、以来やめてしまった。
いのまたむつみさんの絵に惹かれて、ファンタジー小説もよく読んだ。風の大陸や精霊ルビス伝説にハマる。憧れて絵を真似て描いた。風の大陸は、好きだったルソーの「眠れるジプシー女」の世界観を彷彿とさせ、物語に浸るのは楽しかった。しばらくすると、ミュシャやガレ、象徴主義、ラファエル前派の世界に惹かれていった。
そう、前後するが小学校低学年の頃、図書館で初めてクリムトの「接吻」を見て目が離せなくなった鮮明な記憶がある。融解していく男女を取り巻く黄金の闇。絵具のなかでも特別だった金色。明るさしかないと思っていた金色が、吸い込まれるような暗い空間にたゆたっていた。
二十歳も過ぎれば多少知識も増えてきて、辿ってきた点と点を線でつなげるようになる。私は何に惹かれ、どこへ向かっているのか。
国立西洋美術館にウィンスロップ・コレクションが来た時は、念願のギュスターヴ・モローの「出現」を観に行った。心躍らせて足早にそれへ向かったが、なんと、本物はイメージを超えることがなかった。私は何も見ていなかったことを知った。見たいものを投影してきたに過ぎないのだ。以降、作品や作家をありのまま見たいと意識を持つようになった。己の表現や欲求と切り離して、純粋に作品に触れられるようになりたいと願うように。モローの素晴らしさも、この後少しは触れられたように思う。だからこそ今、もう一度出現を見たい。
加山又造の作品に出会うとクリムトの黄金の闇が甦った。アメリカ留学から戻って薩摩琵琶に傾倒していったのも、神楽や能への憧れ、点と線の行方にはエロスとタナトス、幽玄の世界があることを知ったからだろう。誰しもが背負う死の運命。生と死。陰陽に分裂するエネルギー、そのゆらぎ。生まれようとする生命のゆらぎ。生きようとするゆらぎ、声。声の振動に生のエロスは出でると感じていた。
アメリカに渡って歌を学び始めて、私は表現の自由を失った。そんな事態に陥るとは夢にも思っていなかった。メソッドを学び始めるため、それまでの声の出し方を捨てゼロから出発した。不自由になった。20年かけてやっとの思いで少しずつ自由を獲得してきた。しかしまだまだ不自由で、備わっていたはずの天然の自由を生涯取り戻せない気がして喪失感に苛まれたこともある。だからこそレッスンを受けて下さる方には私が学んだメソッドを勧めない。表現に正解はない。現状にプラスしていく、個性を伸ばすようにガイドしたいと強く思う。何のために歌うのか。今ここにある命、魂を歌わずして何になろう。
私はこのまま迷いながら進んでいく。間違いだったとは思わない。素晴らしい出会いがあったから。
1mmずつの自由の獲得、このささやかな人生のうち一体どこまで辿り着けるだろう。音楽はコミュニケーションだから出会いにも因るだろう。日々の生活を慈しみながらどこまでたどり着けるのか、いささか絶望的に心に思う。けれども真善美の追求にエロスの神は出でると信じている。点と線の先で命は声を上げる。声の余韻は揺らいで空を泳いでいく。道は続く。
人と人のつながり
人と人のつながりというのはひどく不思議で、時に、初めて会ったはずが、"旧知の仲"であったかのような安心感やつながりを感じることがある。まるで、その関係はずっと前から成り立っていて近くにあったかのように。
さて、この関係というもの、出会っても出会わなくとも、二人の間に成り立つ関係性は変わらず存在するとしたらどうだろうか。もしも、運命のいたずらで二人が出会えなかったとしたら…その関係性は「無い/存在しない」ことになってしまうのか?
ひまわりで有名なゴッホ。彼は生前、時を越え世界中の人々の心を震わせることを一時も感じなかっただろうか。宮沢賢治は、夜空の星々を眺めながら、未来に多くの友が両手を広げて待つことを予感しなかっただろうか。
過ぎし日、こうして思いを馳せては、最後にはいつも「感じていたはず」と確信を抱いた。それが意識に宿る一瞬の輝きだったとしてもきっと、人々とのつながりを感じたていただろうと。願望に過ぎないかもしれないが、やはり今もそう思う。
私たちは、星の数ほどの間接的な出会いがあることを知っている。歴史をさかのぼって誰かを慈しみ、想い、尊ぶ。直接会うことはない誰かの作品に影響を受け、救われることもある。人は強烈に影響し合って世界は動いていく。時間や場所、時空を超えた間接的な出会いは決して幻ではない、と魂で知っている。
私たちの周りには、あらゆる人、物、事との関係が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、満ちあふれている。「赤い糸」「ソウルメイト」と親しまれてきた縁も、実際に出会う前から「見えないつながり」が存在することを暗に示めしている。あなたの眼差しを待つ誰かがいる。
たとえ時代が違っても、同じ時代を生きながら直接会えずとも、それを悲観することはない。誰かとの、何かとの関係性から得られるものはあなただけの宝物であり、あなたとの間にしか生まれないもの。私たちはたくさんのつながりの中に生きていて、世界は新たな出会いの予感に満ちている。過去に耳を澄ませ、身近なつながりを大切に育み、未来に心を傾けて生きる。うまくいかないことがあっても大丈夫。一人の静かな夜にも、月明かりの下、あなただけのつながりを感じられるはず。
心の約束
2010年、サイトウ・キネン・フェスティバル松本(現セイジ・オザワ・松本フェスティバル)を訪れた。帰京の折に松本駅近くの古書店へ立ち寄ると小林秀雄の「本居宣長」を見つけた。簡単に読み切れずともまずは手元へ置こうとレジへ向かうと、私のささやかな心意気を優しく認めてくださった店主が、しばしの雑談にお付き合いくださった。小林秀雄と岡潔の対談本「人間の建設」の話題から、直接岡潔と交流のあったご友人の貴重な話を聞かせてくださり楽しいひと時を過ごした。読み易く、対話者の佇まいや雰囲気に触れられるのも対談本の面白さ。特定の相手の限定的な視点にこそ晒されて際立つ真実の断片がある。私の想像に豊かな彩りを加えて下さった店主は、お店があるので近くで開催される素晴らしいフェイスティバルにもなかなか足を運べないと仰っていた。
後日、お店を守りながら少しでも楽しんでいただけたなら、と自身のCDアルバムを店主へお送りした。
それから、数日経ったある雨の日、私の手元に一冊の本が届いた。串田孫一の「青い幻」。店主がお礼にとお贈りくださったのだ。雨音のなか読み耽った。深い森の奥。
それから、この宝を歌のなかで輝かせたいと長く切に願っている。串田孫一氏のご長男で俳優/演出家の串田和美さんはまつもと市民芸術館の館長をお務めになっている。ここはセイジ・オザワ・フェスティバルの主要会場でもある。
Ravelから広がる世界
ラヴェル好きにはたまらない「そうとは知らずに観た映画でRAVELの曲が流れてきた」という現象。映画「Biutiful」にもそれはあった。美しい映像に、心深く強く意味を託すように流れた "Concerto for Piano and Orchestra in G major, 2. Adagio assai1." Bardemの素晴らしさ。監督の眼差し;誰かを真っすぐに想うとこんなにも鮮明で力強い画が作り出せるものか。最後のシーンの美しさは格別だった。
もう一つ、水声社のベルトランの詩集「夜のガスパール」をご紹介したい。ラヴェルがベルトランの詩に触れ、曲集「夜のガスパール」は生まれた。ラヴェルのなかに音の粒が噴水のように湧き出す。その瞬間を想い描くことのできる至極の一冊。