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執筆者の写真tomoka kisalagi

町田康「告白」

明治26年5月、大阪の金剛山の麓 赤坂村大字水分で実際に起こった殺人事件、通称 河内十人斬り。河内音頭でも唄われたこの事件をモチーフに、主犯 城戸熊太郎の人生を描いた小説。

676ページにおよぶ長編だが、長さを負担に感じることは一時もなかった。生き生きと描かれる登場人物、河内弁の訛りが匂い立つ。訛りに馴染がなく、理解のできないところがあれば声に出して読むのをおススメしたい。ただし、本を閉じた後も、すっかり虜となって家族に大阪弁で話しかけたりすると、お調子ものは冷たい態度を取られるらしい。



著者の無駄のない精緻な言葉遣いで綴られる情景、熊太郎の様相。だからして余計に目立つ、熊太郎の無駄ばかりの混濁した思弁的思考。


私たちは、普段の風景をどれほど言語化し、記憶に留めているだろう。本は映画と違って、流し見などしようはなく言葉が響いてくる。例えばハンニバルの映画は観ても、本では読みたくない私。時に、人の心を真正面から追体験するのは恐ろしくもある。犯罪者に理解を覚える、まして共感を覚えるなど、率直に恐ろしい。しかし、幼少期から熊太郎を追えば、どうしたって重ねられる部分も出てきて、いつしか応援するような気持ちになって、ふっと水たまりの底が透けて見えるかのように、己のうちに恐ろしさを予感するのだけれど、そんな時、町田康が引き戻してくれるから、この小説は大丈夫なのだ。

「あかんではないか」

理由があっても、原因があっても、あかんものはあかん。町田康の冷静で強靭な精神がコンパスだ。安心して、熊太郎をガン見しよう。 「告白」には、熊太郎がおり、熊太郎を取り巻く人々や時代があり、読者である自分、著者である町田康がいる。そして、著者は二面存在する。熊太郎の精神に憑依して物語を描き出した無私の町田康と、すべてを俯瞰して冷静に観察する町田康。読者は熊太郎に迫った旅を追体験し、出来事を目撃していく。長く熊太郎と過ごすうち、揺り動かされる何かがあっても、最初から見守っている町田康が引き戻してくれる。強靭で健全な町田康が、引き戻し、時に天に問う。救いのない熊太郎をほうっている時代に、天に、問いかける。


時代は、誰かの主観からすれば、いつだってズレている。明治には、ロックがなかった。

いずれにしても、長い時間を共にした熊太郎が迎える最後に立ち合うと、胸をえぐられたようだった。命を賭し、折り返し不可能な崖っぷちで、信じて崇めてきた輝きが虚構であったと、或いは、己の創り出した虚像であったと、もはや、アンジャッシュのコントのような行き違いから生じた勘違いですらあったと知った時、人は何を思うだろうか。唯一の友の眼差しが、目の前で失望の目に変貌した瞬間、世界は温度を失い、…本当は知っていたけれど、認めようのなかったどす黒いものが止めどなく溢れ出した時、人はどうしたら良いのだろう。二度と取り戻すことのできない記憶の輝く時間すら、ブラックホールに跡形もなく飲まれてしまった人生には、何が残るだろう。久しぶりに、涙が止まらなかった。時を経ても、胸の痛みは忘れない。物語が、このように涙を流させるのは、歴史には凄絶な悲しみや苦しみが星の数ほどあったという事実がそうさせるのかもしれない。あとがきは石牟礼道子さんという驚きも待っていた。


命は儚く、精神は重く、意識はいたずらだ。健康も、必ずしも健全を保ってはくれない。誰かが時代や宿命に翻弄され、糸を切られるように意味もなく落ちていく。原因も理由も、あるといえばあるが、ないといえばないまま、ただ意味もなく落ちていく。だけど、痛みだけは、残せる。人の記憶に残せる。


素晴らしかった。


ああ、ところで、三船敏郎の無法松の一生が彷彿とし、三船が熊太郎を演じたらどうだったかと胸を焦がした。 羅生門の頃のような若い時から、ラストは七人の侍の時分か。なんとも贅沢な空想に耽ってしまう。



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